すぎた きゅうしん
杉田久信の “現場”
からの教育提言
 ≪基礎学力で教育再生≫

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A.理論編 B.実践編 C.心の教育 ◆校長室の窓から ◆リンク集
1 教育を歪めた戦後の論調を糺す
2 指導要領改訂が学力低下をもたらした
3 アメリカ教育の荒廃と再生の過程
4 教育行政への提言
5 基礎学力をつける5つの柱
6 基「子供を楽にする教育」か「子供を鍛える教育」か
7 基礎学力の徹底で教育は再生する
8 戦後教育が善意で犯した罪
9 
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A【理論編】今、なぜ基礎学力か

8.戦後教育が善意で犯した罪

戦後教育が“善意”で犯した罪 
   明治図書   『学校運営研究』  連載

                 目 次

平成14年4月号  今月のキーワード:競争と平等について
               「子供を成長させる厳しい環境」としての「競争」や「不平等」

平成14年5月号  今月のキーワード:暗記と学習について
                     暗記を復権させる

平成14年6月号  今月のキーワード:自由と規律について
                     教えられなかった自由の厳しさ

平成14年7月号  今月のキーワード:喧嘩と和について
                     喧嘩は生き方を指導する機会である

平成14年8月号  今月のキーワード:愛と技術について
                     「教育技術」を復権させる

平成14年9月号  今月のキーワード:規範と秩序について
                    守るべき社会規範を明確にする

平成14年10月号 今月のキーワード:指導と支援について
                     支援の授業は徹底指導の授業の上に成り立つ

平成14年11月号 今月のキーワード:個性の尊重と自主性について
                    個性には長年のトレーニングが、自主性には粘り強い指導が                   必要

平成14年12月号 今月のキーワード:関心態度重視について
                     関心・意欲・態度の重視は、逆に勉強への意欲をなくさせた

平成15年1月号  今月のキーワード:放任と強制について
                     適度な「放任」と適度な「強制」が必要

平成15年2月号  今月のキーワード:忍耐と達成感について 
                     忍耐力や達成感は反復学習の中でこそ育成される

平成15年3月号  今月のキーワード:自己実現と使命感について
                     自己実現の強調の中で忘れられた使命感

 

学校運営研究(明治図書)平成14年4月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・1

 

今月のキーワード “競争と平等”について


  「子供を成長させる厳しい環境」としての「競争」や「不平等」

                          杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

◆ 善意が子供を堕落させる
 
  医学者であり、生物学者であるアレキシス・カレルは、著書『人間―この未知なるもの』の中で、「快適で心地いい環境に長く人間を置くと、生物体としての人間の価値である適応能力が摩滅し、堕落が起こる」「生物体としての適応能力を維持し蘇らせるためには、意識的に」厳しい環境に自分を置くことが必要である」と述べている。
  戦後の社会、戦後の教育は、子供たちにとって少しでも厳しいと思われる環境を排除することに力を注いできた。それは、苦しい時代を生きた世代が、子や孫たちに自分たちが味わった苦労をさせたくないという親心であり、善意からの行動であったと思われる。しかし、それは、子供が忙しいから休みを増やそう、勉強がたいへんだから学習内容を少なくしよう、受験競争が過熱しているから皆が高校に入れるようにしよう、受験科目を減らして負担を軽くしようなど、子供たちに甘くさせることばかりであった。そこには、子供たちを厳しく鍛える、訓練する、学力をしっかり定着させるという発想は全くない。その結果、子供の自立を遅らせ、勤勉・知性・忍耐といった日本人のよき特性までも破壊してきたのだ。

 ◆ 子供を成長させる競争や不平等がある

 以前の遠山啓氏の「競争原理をこえて」や最近の船井幸雄氏の「競争から共生へ」といった発言は、本人の真意から離れて、競争が諸悪の根元であり、全ての競争を排除しなければならないといった極論を助長させているようである。もちろん、排除すべき行き過ぎた競争はあるだろう。しかし、人間を成長させる競争があることも確かである。よきライバルの存在が人間を大きく伸ばすという事実、競争が人間に活気と気概をもたらすという事実、遊びも競争の要素が入ったほうが面白いという事実は誰も否定できない。「競争」というものは、アレキシス・カレルの言う適応能力を鍛える「厳しい環境」の一つと考えることができる。
教育において競争を排除することは、適応能力を奪い子供たちを覇気のない人間にしてしまう。
  また、機会の平等は大切だが、結果の平等まで要求するのは、それまでの努力を無視するものだ。結果としての不平等を直視することが子供にとって「厳しい環境」として作用し、子供を伸ばすことが少なくない。  
  しかし、「競争」も「不平等」も行き過ぎれば弊害ばかりが目立つことになる。教育の場では、子供の成長につながるかどうかを常に判断し、人間関係に十分配慮して競争を採り入れることが大切である。

 

 

学校運営研究(明治図書)平成14年5月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・2

 

  今月のキーワード “暗記と学習”について
 

      暗記を復権させる

                              杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)
              
                               

 

 ◆ 行き過ぎた詰め込み教育批判

 日本では、戦後初期までの教育が知識の暗記や詰め込みのみに偏り、創造性への配慮が著しく不足していたことへの反省から、知識よりも創造力が大切だという論調が主流になってきた。この論調は戦後初期までの教育の反省という善意に基づいた批判であり、誰も反論できない正論として、70年代後半から今日まで四半世紀もの間、受験競争批判とともに一貫して主張されてきたものである。
  ところがそれは、今や行き過ぎて知識軽視の風潮にまでなっていることは憂えるべきことである。先日も成功を収めている技術者がテレビに出演して、知識の詰め込みや受験学力をくだらないものとして徹底的に批判し、独創力の大切さを強調していた。この番組を見ていた高校生たちが、知識は必要のないものと誤解し受験勉強に対しても、やる気を減退させたのではないかと心配だった。未だにマスコミ等では、このように知識を軽視して独創力を強調する意見がもてはやされている。

◆ 能力開発には暗記や詰め込みも必要 

 知識の詰め込みは創造力を潰すという考えが日本では常識になっている。しかし、これは疑ってみる必要がありそうだ。なぜなら、ノーベル賞受賞者の三分の一がユダヤ人であると言われているが、ユダヤ民族の伝統的な教育は膨大なユダヤ経典を幼児期から暗唱させることで知られているからである。また、アメリカのIT産業で創造力を発揮して活躍しているのは、ユダヤ人に加えてインド人であるといわれているが、インドの教育では子供たちに2ケタ数字のかけ算九九を暗唱させている。
  暗記や詰め込みを徹底している民族や国の出身者が創造力の要求される産業で大活躍し期待されている事実は、暗記や詰め込みも人間の能力開発に必要であり有効であることを示しているのではないだろうか。
日本人が優秀だったのも、暗記や詰め込みの教育があったからであろう。

 ◆ 「知識よりも創造力」ではなく「知識も創造力も」大切である

 創造力とは全くの無から有を創り出すことではなく、それまでの知識の新しい組み合わせをすることである。創造力の土台には知識が必要なのは誰も否定できない。だから、教育では創造力の重要性とともに知識の大切さも語られるべきであろう。
  今日必要とされているのは、「知識よりも創造力が大切だ」ではなく、「知識も創造力も大切だ」との認識であり、暗記や詰め込みも再評価して採り入れることでなかろうか。  

 

 

学校運営研究(明治図書)平成14年6月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・3

 

  今月のキーワード “自由と規律”について
 
     教えられなかった自由の厳しさ

                          杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

◆ 子供の甘えを助長した戦後の論調

 「子供たちが問題行動に走るのは、学校の管理が強くて子供たちに自由が与えられていないためだ」「子供たちは学校にがんじがらめにされ、ストレスが多く荒れるのは当然だ」といったマスコミや評論家の論調が戦後一貫して展開されてきた。この論調は、子供の自己責任や結果責任を問わないものであり、子供たちの甘えと自己中心性を助長させてきた。アメリカでは、少年であっても凶悪殺人を犯したら、顔写真は公表されるし容赦なく死刑にもなる。日本では、このような厳しさとは大違いである。
  この論調は、とりわけ、ゆとり教育が導入された1980年代から大きな流れになってきた。この流れに学校は大きな影響を受け、校則の廃止や見直しなどの規律を緩め自由を拡大する方向で動いてきた。しかし、自由の拡大は、嫌いなことは一切やらないという甘えや自己中心を助長する方向に導き、規律を軽視し学ぶ構えを崩していった。その結果、問題行動や少年の凶悪犯罪を一層増やし、学ばない子供を大量に生みだした。

◆ 自由は夢や志があってこそ生きる

自由が尊いのは、夢や志、やりたいことや好きなこと等に向かって努力することが可能になるからだ。
やる気のある者に取っては、自由は何事にもかえがたい大切なものである。しかし、夢も志もない者、やりたいことも好きなこともない者には、自由はあまり意味がなく与えられても持て余すかもしれない。

◆ 自由は規律を踏まえて行使するもの 

また、自由とはわがまま勝手をすることではない。いくら夢や志、やりたいことや好きなことがあっても、
人としてやってはいけないことや守らなければならないことがあるのは当然のことだ。守るべき規律を踏まえて自分の頭を使って考え行動することが自由である。規律は必ずしも自由と対立するものではない。自由に制約が伴うのは当然のことである。ただ、意味のない規則は見直すことが必要である。

◆ 自由の厳しさを教えよ

今日必要とされているのは、子供の機嫌をとるような論調を唱えることではなく、自分自身への厳しさ、自由の厳しさを教えることである。とりわけ、自由には責任がともなうこと、自由は守るべき規律を踏まえて行使されなければならないこと、そして、自由の前には、夢や志、目標ややる気がなければならないこと等を教えるべきである。

 

学校運営研究(明治図書)平成14年7月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・4

 

  

今月のキーワード “喧嘩と和”について
           

  

    喧嘩は生き方を指導する機会である

                                                                

                        杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長
                                                  

                                                  

 

 ◆ 喧嘩を禁止されて育つと、対立を調整する力が育たない

戦後の日本の社会や学校では、「和が大切で絶対に喧嘩をしてはならない」とされてきた。この考えは平和憲法の絶対的な平和主義に根元があるものと思われる。ところで、喧嘩や対立やもめ事を禁止されて育つと、対立を調整する力のない子供や人間関係を希薄にする子供が育つ。もめ事を常に恐れて表面的な付き合いしかしない子供が増えるのである。この傾向は今や社会全体に広がっている。
子供の喧嘩では喧嘩そのものを否定するのでなく、感情的にならず冷静に話し合いで利害や意見の対立の折り合いをつけるように指導すべきであろう。意見を主張し合って、譲るところは譲り妥協すべきは妥協して、極力感情的な争いや暴力を避ける知恵と技術を学ばせることが大切である。それは、生き方そのものの指導にかかわることである。

◆ 「和」を唱えることが「気概」を失わせることにつながった

また、むやみやたらに喧嘩することはあってはならないことであるが、理不尽で不当な要求や暴力や脅しによる要求に対しては、毅然と対処することも時には必要となる。その結果、喧嘩になることがあるが、それはやむを得ないことである。ところが、日本社会では、このような不当な要求や暴力に対しても、「和が大切で絶対喧嘩をしてはならない」との傾向が強い。その結果、不当な要求や暴力に対していいなりになったり媚びたりする傾向が広く見られるようになった。かつてはサムライの国と言われていたのに、今や日本人は「気概」を喪失し、ひ弱になり、暴力や脅しに弱い国民になってしまった。

◆ 喧嘩の経験不足が戦略的思考の欠如につながっている

さらに、日本人は、知識人や各界指導者までも戦略的思考が欠如していると言われている。力関係や利害が複雑に絡み合う今日の世界の現実を前に、日本はいつも迅速で適切な対応が取れずにもたつくことが多い。これは、子供のころから喧嘩の経験が不足していることが一因ではないだろうか。戦略的思考というものは知識だけではなく、むしろバランス感覚や人間理解に基づく直感を含む、より本質的な知恵である。それは利害や意見の対立に、子供のころから真正面から向き合う中で鍛えられるものである。
  喧嘩を、子供に対立を調整する方法を学ばせ、生き方を指導する機会としたい。

 

 

学校運営研究(明治図書)平成14年8月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・5

今月のキーワード “愛と技術”について
 

「教育技術」を復権させる

                杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

◆ 戦後一貫して教育技術は軽視されてきた

教育界では、戦後一貫して「教育技術」を軽視し否定的に見る風潮が続いてきた。学校現場では教育愛や教育理論が崇められ、多くの研究発表校には教育学者がついて学校は学者の理論を実践していた。しかし、それらの華々しい研究はいつのまにか廃れていった。その多くは、子供たちが確実に育つという事実が伴わなかったからである。
  これに対して、向山洋一氏を中心とした教育技術の法則化運動は、学校現場での優れた「教育技術」の地道な実践で、素晴らしい子供の事実を数えきれないほど作り上げてきた。落ちこぼれている子供を勉強好きにし、できる子供を一層伸ばしてきた。
  ところが、教育技術を目の敵にする人がいる。「教育は技術ではない。教育愛や教育理念こそが大切だ」というのである。いかにも「教育技術」と「教育愛や教育理念」が対立するもののように語られる。しかし、優れた「教育技術」には子供への愛や教育理念が内包されているものだ。そこにあるのは観念論でなく、具体的な事実に支えられた本物の教育愛と教育理念である。

 ◆ 大学の教育学部で「教育技術」も教えることが必要である

 さて、戦後、「教育技術」が軽視されてきたのはなぜだろうか。それは、GHQによって戦前の教育が全て否定され、とりわけ、師範学校が廃止されたことが大きくかかわっている。戦前の日本には、伝統的な読み書き計算を中心に世界一流レベルの「教育技術」が蓄積されていた。師範学校には、それらの優れた「教育技術」が集まり、伝承される場となっていた。ところが、この師範学校の廃止とともに、伝承されていた「教育技術」も断ち切られてしまった。現在の大学の教育学部には伝承されるべき「教育技術」は皆無であり、現場にあまり役立たない理論だけを教えてきた。ここに、「教育技術」軽視の根源がある。「教育技術」を教えられずに大学を出た新規採用教員のほとんど全員が、必ずといっていいほど学級崩壊的状況を体験してきた。教育現場にまだ旧制師範学校を出た教員がいる間は問題なくやってこられたが、彼らが現場から完全にいなくなると、学級崩壊などの深刻な問題現象が噴き出してきた。
  今、日本の教育を立て直すために最も必要なことは、「教育技術」を復権することである。特に、大学の教育学部で「教育技術」もしっかり教えることである。幸い法則化運動などが全国各地で蓄えてきた世界レベルの「教育技術」は整っている。インターネット上でも集大成の試みが始まっている。もしも、現大学で「教育技術」を教えることが難しいなら、新しい師範学校ともいうべき新大学が必要である。

 

学校運営研究(明治図書)平成14年9月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・6

  今月のキーワード “規範と秩序”について
 

   守るべき社会規範を明確にする

                            杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 ◆ 教えられなかった社会規範

 戦後半世紀以上も日本の教育では社会規範を教えてこなかった。守るべき社会規範とは何なのかをはっきりさせる努力すらしてこなかった。戦前の「修身」の反動から社会規範について思考停止に陥ってきたのだ。しかも、文部省と日教組の双方から、道徳では価値の押しつけや教え込みをしてはならないとされてきた。これでは、「悪いことは悪い」と教えることも、守るべき社会規範を教えることもできにくくなり、規範意識をしっかり身に付けることはできない。
  それでも今日まで社会が何とか秩序を保ってこられたのは、人に迷惑をかけてはいけないといった「暗黙の社会規範」が残っていたからである。しかし、旧世代の人々が社会から姿を消していったことにより、今やその暗黙の社会規範も怪しくなっている。
 
◆ 当たり前のことを徹底する教育を

 私は、平成10年に初めて校長として赴任した小学校で、規範意識を高めるために「当たり前のこと十か条」を決めて、全教室や玄関等に掲示し、校長として子供の前で話をするときは必ずこの「十か条」を引用してきた。これは、赴任と同時に遭遇した学級崩壊と子供たちの暴走に悩む中で搾り出した実践であった。「十か条」による取り組みは、学校全体に引き締まった雰囲気をもたらした。これを基盤にして熱心な個別指導を行ったことで、暴走していた子供たちが落ち着きを取り戻し、二年目には問題行動は激減した。
  「当たり前のこと十か条」は、守るべき社会規範を「当たり前のこと」という誰もが賛同できる観点から提示して、修身の反動から思考停止してきた状況を打破しようとするものである。これは、曖昧になっている社会規範への一つの提案である。これまでの教育では、「思いやりの心をもとう」「他人の立場で考えよう」といった心の次元の言葉を子供に与えることが多かったが、心の中は検証することができない。
  これに対して「当たり前のこと十か条」では、「明るいあいさつをする」「人の物に手を出さない」など全てが行動の次元の言葉であり、具体的、シンプル、即行動に直結する内容になっている。これは、子供を細かい規則で縛るためのものでなく、逆に子供たちが自由に幸せに生きていくために、好ましい生活習慣や人として最低守らねばならない当たり前のことを示したものである。
  当たり前のことを徹底する教育は、深刻な青少年問題を解決することにつながるだけでなく、世界に通用する日本人を育てることになる。当たり前のことがきちんとできる人は、いつの時代にも世界から尊敬されるからである。

 

学校運営研究(明治図書)平成14年10月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・7

 今月のキーワード “指導と支援”について
 

  支援の授業は、徹底指導の授業の上に成り立つ

                            杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

 ◆ 徹底的に排斥された「教師主導の指導」

 日本の学校教育は子供が黙って聞いているだけの一斉指導で、画一的な指導しか行われていないと見られている。しかし、これは社会全体が誤解している代表的な見方である。
  戦後教育では、一貫して教師主導の指導を戒めてきた。「教師は極力後ろに引き、子供たちを前に立てた授業をしなければならない。教師は喋りすぎてはならない」などは、私が教員になった30年以上も前から少なくとも小中学校では常識になっていた。ただし、当時は教師主導を戒めつつも、当然のこととして教えるべきことしっかり教えるということが行われていた。
  しかし、1989年の新しい学力観の登場で(施行:92年4月)、教師主導の指導は徹底的に排斥されるようになった。知識の詰め込みはいけない、子供の自主性を伸ばすために教師主導を追放し、支援に徹しなければならないとの強い指導が行われた。その結果、「教え込むのは悪である」「支援の授業がよくて、教師主導の授業は全てダメである」との観念にがんじがらめになってしまった。そして、学校現場では、指導より支援が大切だとして、教えるべきことも教えないという不思議な状況が生まれた。

 ◆ よい悪いは、「子供の事実」で決まる

 支援の授業がよくて教師主導の授業が悪いのではない。支援にもよい支援と悪い支援があり、教師主導にもよいものと悪いものがある。よい悪いを決めるのは、例えば、子供が算数が好きになり学力がついたかどうかといった「子供の事実」である。
  ところで、支援だけでは子供を鍛えることはできない。鍛えるには徹底反復指導が必要である。また、子供が自主的に学習を進めていくには教師の粘り強い指導が必要である。教師の粘り強く徹底した指導で、基礎学力と学習能力を身に付けて初めて子供は自主的に学習を進めていくことができる。この段階になると支援中心の授業は効果的である。しかし、この順序を逆にして、基礎学力や学習能力を鍛えないまま、「まず支援の授業ありき」では、学習そのものが成りたたない。支援の名のもとに放任されていては、いつまでたっても自主的に活動することができず、充実感ももてないだろう。
  今、学校現場に必要なのは、教えるべきところではきちんと教え、考えさせるべきところではしっかり考えさせ、子供に任せるべきところでは思い切って任せるといった、指導と支援のバランスのとれた常識的な指導観である。

 

学校運営研究(明治図書)平成14年11月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・8

今月の
キーワード “個性の尊重と自主性”について

 

個性には長年のトレーニングが、自主性には粘り強い指導が必要

                               杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 ◆ 個性・自主性の尊重が、学習への構えを崩し学力低下をもたらした

 戦後、教育界では、画一的指導法や型にはめることを批判し、個性や自主性の尊重が常に叫ばれてきた。とりわけ、ゆとり教育路線をとり始めた昭和52年の学習指導要領改訂のころから、この傾向は顕著になってきたが、さらに、中曽根内閣の臨時教育審議会以降、個性化、自由化の教育改革が強力に進められてきた。
制度的には、学校五日制、教育内容の削減、選択教科の拡大、総合的な学習の導入などであり、教育観や教育方法についても、「一人一人にあった個性尊重の教育を!」「一斉・押しつけ授業を排し、自由で伸び伸びした教育を!」「教師主導から子供の興味・関心・意欲を大切にした支援型の授業に転換せよ」といった強い指導が学校に入ってきた。
  この結果、学校では社会規範と基礎学力をきちんと身に付けさせて、子供を社会的に自立させるという最も基本的な責任が忘れられるようになった。個性の尊重は、社会規範や基礎学力に欠ける子供もそれはその子の個性と捉えて、厳しく習得させるのでなく、その子を肯定的に評価する別の基準を探すという方向に導いていった。また、押しつけ・強制を否定し、支援の授業を推進し、宿題を減らしてきた。自主性を尊重すれば子供は進んで勉強するはずだとの考えからである。しかし、結果は、混乱と学ばない子供を大量に生み出しただけに終わった。ほとんどの子供は外からの強制がなければ勉強しなくなるのは自然の成り行きであった。それは、子供たちの学習への構えを崩し、深刻な学力低下をもたらした。また、落ち着きのない子供や耐える力に欠ける子供を増加させ、授業に集中できない学級も増大させ、学校現場に問題行動やトラブルを蔓延させた。

 ◆ 個性と自主性は、長年のトレーニングと粘り強い指導によって輝きだす

 そもそも真の個性というものは、長年の修練や鍛錬の結果輝きだすものである。例えば、踊りでは、師匠をまねて反復練習して基本を完全に習得した後に、その人の個性が出てくるのである。それまでは個性というよりは、癖や未熟というだけである。生まれつきもっているものは、個性でなく単なる傾向である。
  基本を身に付ける段階で、「個性」や「子供の思いや願い」などと言っている限り、子供を鍛えることはできず、基本は身に付かない。そして、基本なきところ決して一流のものは生まれない。
  また、子供の自主性を育てるには、教師の粘り強い指導が必要である。支援の名のもとに放任されていては、いつまでたっても自主的に活動することができない。
  今日、個性と自主性について、これまでの認識の見直しが必要とされている。

 

学校運営研究(明治図書)平成14年12月号 掲載


連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・9

 今月のキーワード “関心態度重視”について


  関心・意欲・態度の重視は、逆に勉強への意欲をなくさせた

                           杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

 ◆ 関心・意欲・態度を重視するあまり、反復学習がおろそかになった

 ゆとり教育、新しい学力観の一貫として、戦後の四半世紀にわたって、「関心・意欲・態度」を重視した教育の大切さが強調され、全国の学校で実践されてきた。
ところで、この「関心・意欲・態度」重視の教育は、どんな結果をもたらしたのか。今日、様々な調査結果で明らかになっているのは、日本の子供たちの学習意欲が乏しいということだ。どのデータをとっても日本の子供たちは先進国の中では一番勉強時間が少ない。関心・意欲・態度を重視してきた結果が、逆に学習意欲の低下をもたらしたという現実を直視しなければならない。「関心・意欲・態度」の重視が、なぜ学習意欲の低下につながったのだろうか。それは例えば算数では、子供が興味・関心をもつ教材の開発に膨大な時間をかけて準備して取り組んできたのに、逆に算数嫌いは増える一方であった。これは、「関心・意欲・態度」を重視するあまり、反復学習やトレーニングがおろそかになったからではなかろうか。つまり、いくら導入で興味・関心を大切にしても、反復学習の軽視で「できる」「分かる」ようにならなければ、子供は決して算数を好きになることはない。逆に、子供は反復学習によって「できる」「分かる」ようになれば、算数が好きになり、自ずと算数に興味・関心をもち意欲的になるのである。

◆ 「関心・意欲・態度」重視が子供たちにストレスを与えた

また、「関心・意欲・態度」重視の評価は学力の状態をわかりにくくした。進歩がはっきり感じられるのは、点数などの客観的データで示された数値が上がった時である。点数を重視した到達度の評価は、子供に目標を与え意欲的にする。それなのに、点数による客観的な評価を避けて、「関心・意欲・態度」という主観的要素の強いものを中心に評価していては、子供の進歩もはっきりせず、努力すべき方向も曖昧になってしまう。これでは、勉強への意欲が薄れるのは当然だ。「関心・意欲・態度」は、点数による客観的な評価を補助するのに使うべきだと考える。
  さらに、中学校では、「関心・意欲・態度」重視の内申書が子供たちに日常的にストレスを与えている。これは、たとえテストでいい点をとっても、先生に嫌われたら内申書は悪くなると思わせるからだ。1969年に東京都が内申書を導入して以来、内申書は各地に徐々に広がっていった。10年たって家庭内暴力、校内暴力、いじめが問題化してきた。「関心・意欲・態度」重視の内申書が全国展開されたのが1994年。その前後で校内暴力は2倍に急増した。日常行動を、主観的要素の強い関心・意欲・態度や手を挙げる回数などで測ろうとすると、子供たちはストレスで荒れる。
  関心・意欲・態度重視の教育は、子供たちに日常的にストレスを与え、勉強への意欲をなくすことにつながった。今日、この教育の見直しと転換が急務である。

 

  学校運営研究(明治図書)平成15年1月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・10

  今月のキーワード “放任と強制”について
 
      適度な「放任」と適度な「強制」が必要

                              杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 ◆ 教育から「強制」が排除されてきた

 戦後教育では、一貫して「強制」を戒めてきたが、ここ四半世紀は「強制」を排除する傾向が一層強まってきた。教育現場では、子供に強制してはいけないという考えから、「子供の自主性を大切に」「指導ではなく支援を」「教え込みはいけない」「一斉授業を排せ」といった風潮一色になってきた。そして、「支援」や「子供の自主性」の名のもとに子供たちへの堅実な指導が避けられ、結果として子供たちを「放任」することにつながった。子供の自主性は,待っておれば出てくるものでなく、粘り強い指導から生まれるものである。自主性を育てるためには、教師の教え込みや堅実な指導が必要なことが忘れられている。
  そもそも、一切の強制や押しつけをやめて子供の自主性尊重すれば子供たちは自分で進んで勉強するはずだ、という考えは幻想でしかない。大半の子供たちは何らかの強制がなければ勉強しないのが現実である。そして、強制・押しつけを否定し、叱ることをやめる教育は、嫌になったらすぐ投げ出す子供や嫌なことには手をつけようともしない子供を増やした。
  教育から「強制」を排除した結果は、著しく「放任」が広がることになり、学力と規範意識の低下をもたらしたのだ。

 ◆ 適度な「放任」と「強制」の教育的側面

 ところで、行き過ぎた「放任」も行き過ぎた「強制」も共に非教育的であり排除されなければならない。しかし、適度な「放任」や「強制」には教育的側面があることを認識すべきである。まず、「放任」の中で子供が育つ側面がある。それは、親や教師の目の届かないところで、子供たちは多くを学び育っていくという事実があることだ。子供の発達段階にもよるが、親や教師に監視の意図がなくても、四六時中、親や教師の目の届く中では、子供もストレスを感じ健全に育つことはできない。子供にも、親や教師の目の届かない暗闇の部分は必要だ。
  また、教育には必ず「強制」的な側面が伴うものであり、「強制」なくしては教育そのものが成り立たない。しかも、その強制の中で子供が大きく育っていくことは少なくない。たとえば、落ち込んでいる基礎学力を身に付けさせるために、強制的な厳しい指導で力をつけたといった教育実践は、「強制」が効果をあげた事例である。この事例は、後に子供たちから感謝されることが多い。
  行き過ぎた「放任」も行き過ぎた「強制」も、子供たちに悪影響をあたえるので避けなければならないが、適度な「放任」と「強制」は必要である。要するに、「放任」も「強制」もバランスが大切なのだ。

 

学校運営研究(明治図書)平成15年2月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・11

  今月のキーワード “忍耐と達成感”について
 

     忍耐力や達成感は反復学習の中でこそ育成される

                               杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

 ◆ 消極的であった忍耐力の育成

 忍耐力や達成感は「生きる力」の中核といえるものである。物事を成し遂げるには忍耐力が必要不可欠である。また、達成感は忍耐力で困難を克服し、物事を成し遂げた後に生ずるものである。
  ところで、戦後教育では、この忍耐力を育成することには一貫して消極的であった。「鍛える」とか「忍耐力をつける」ということには一貫して消極的であった。「鍛える」とか「忍耐力をつける」ということは、戦前の教育を連想させるということで、タブー視されてきたのだ。
「生きる力」が強調されてきた今日でも、不思議なことに、「生きる力」の中核である忍耐力を育成することがテーマとして取り上げられることはほとんどない。
 
  ◆ 反復学習で得られる忍耐力と達成感

今日の学校は、授業の導入時の興味・関心や面白さにばかり熱心である。しかし、達成感や忍耐力を身に付けさせるには、基礎学力や基礎基本の反復学習が絶対に必要である。反復学習なしではどんな力も身に付かない。しっかり反復学習するということは、あらゆる能力を身に付けていく際の普遍的原理である。   この反復学習の中でこそ、最も集中力や忍耐力が身に付き、「できた」「分かった」「やり遂げた」といった達成感や喜びも感じられるのだ。
  戦後の学校教育、特に、ゆとり教育導入以降は、忍耐力や達成感の育成の場でもある基礎学力の反復学習が著しく軽視されてきた。そして、反復学習で身に付けるべき基礎学力をおろそかにしたまま、考える力や創造力、応用・発展的な内容ばかりに目を向け取り組んできた。しかし、それは広範な学力低下をもたらした。基礎を身に付けてから応用・発展に向かうことは、あらゆる学習の常識であり、これに反していれば成果が乏しいのは当然である。

 ◆ 読み書き計算の驚くべき効果

 読み書き計算の反復学習の効果は、最近の脳科学の研究でも裏付けられている。ブレイン・イメージング研究の第一人者である川島隆太東北大学教授は、著書」『読み書き計算が子供の脳を育てる』の中で、「読み書き計算の反復学習を十分行うことが、思考を司っている大脳の前頭前野を最も活性化させ、考える力や創造性も伸ばす」と述べている。また、「荒れる、切れる子は前頭前野が未発達であり、反復学習は彼らにも効果がある」とも述べている。
  日本の教育は、「ゆるぎない基礎学力を反復学習で身に付けてから、応用に向かう」との立場に立つべきである。それが、子供たちに忍耐力を身に付け達成感をもたせる最も確実な方法である。そして、それは教育の再生にもつながるであろう。

 


  学校運営研究(明治図書)平成15年3月号 掲載

連載/戦後教育が“善意”で犯した罪・12

今月の
   キーワード “自己実現と使命感”について

 

      自己実現の強調の中で忘れられた使命感

                            杉田 久信(富山県富山市立五福小学校長)

 

 ◆ 忘れられた使命感

 10月に都内の中学校にアフガニスタンの中学生たちがやってきた。日本ユネスコ協会連盟が主体となって、アフガンの先生2人と中学生4人を招致したものだ。彼らは校内の見学と授業の参観で、設備が整っていることに驚いていたという。生徒会主催の交流会で、将来の夢を聞かれてアフガンの中学生が答えたのは、「土木エンジニアになって、国の復興に尽くしたい」「医者になって国民を救いたい」「記者になって、報道で国民を勇気づけたい」「記者になって、自国の実情を世界に伝えたい」であったという。自国をよくしたいという強烈な使命感が伝わってくる。日本の中学生たちの多くは、彼らが祖国のために尽くしたいと思っていることに感動したと語っている。
  一方、日本の中学生たちの夢の多くは、「自分の好きなことをやりたい」という自己実現型や個性発揮型で、アフガンの子供たちが抱いているような使命感型は極めて少ない傾向にある。
  ところで、使命感は、「他者のために」が出発点であるのに対して、自己実現は、「自分」が出発点になっている。自己実現は、生きがいのために不可欠だとされるが、そこには他者のためにという意識が薄く、自分の好きなことしかやらないといった傾向がある。人は他者の役に立ったと感じた時、心の底から生きがいを感じる存在である。とすると、「他者のために」が出発点となっている使命感の方が、自己実現以上に真の生きがいにつながると思われる。

 ◆ 指導的立場に立つ者には必須な使命感

 さて、この使命感は、とりわけ指導的立場に立つ者には必須なものである。ところが、戦後教育では、「一流大学から大企業へ」という豊かな生活を獲得する目標をもたせたり、近年では「自己実現」や「個性」が強調されたりしてきても、人や社会のために尽くそうという「使命感」や「高貴な志」「奉仕の心」、上に立つ者がもつべき「責任感」や「勇気」を教えることが忘れられてきた。特に、有名進学高校では、一流大学の進学のみが目的となってきたし、一流大学においても、将来、各界の指導的立場になる者に、上に立つ者の心構えを全く教育してこなかった。その結果が、連日報道される、政治家はもとより官僚、警察、銀行、企業などの不祥事で浮かび上がる指導者層の無責任な姿やモラルのなさである。
  今後の教育では、自己実現に留まらず使命感にも目を向けることが必要である。